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戦後70年企業転変(1)高度経済成長期(1964〜70年)――速く高く大きく羽ばたく企業

[ 2015年4月5日 / 日本経済新聞 朝刊 ]

 古希を迎えた日本の戦後。復興、高度成長、バブル、その後の「失われた時代」と移り変わるなかで、経済の中心にいたのはいつも企業だった。企業が歩んだ数々の出来事。そこから何が始まり、今につながったのか。検証の初回は高度経済成長期、とりわけ「昭和が最も輝いた」とされる1964〜70年を起点に振り返る。

 高度成長期の息遣いがわかる写真がある。疾走する東海道新幹線。背景には建設中だった日本初の超高層ビル「霞が関ビル」がそびえる。開発した三井不動産の社員が67年に撮影した。

 「もはや戦後ではない」と経済白書が締めくくったのは56年。高度成長期はその2年前から第一次石油危機の73年までの19年を指すことが多い。奇跡的な経済復興、終わりを告げた占領政策。時代の高揚感を言い表すなら「速く、高く、大きく」の3語だろう。

 東海旅客鉄道(JR東海)の相談役、須田寛(84)は今も鮮明に思い出す。64年の新幹線開業に向け、当時国鉄の技師長を務めた故島秀雄。山高帽をかぶり須田のような若い社員にも帽子をとり会釈した。

 島は新幹線の母体になった「弾丸列車」の技術者。東海道線を欧米のような幅の広いレールにし高速・大量輸送化した上で満州と結ぶ戦前のプロジェクトだ。島の下には国鉄出身者だけでなく、陸海軍で戦闘機開発をしていた技術者たちが大勢いた。敗戦で行き場を失い、政府が国鉄に数百人単位で採用させたのだ。

 須田は話す。「時速120キロメートルの高速鉄道は弾丸列車として戦前から準備されていた。技術者もいた。だから日本の『速く』はわずか数年で実現した」

 戦前の国鉄の資料は空襲で多くが消失している。だが弾丸列車の図面は研究者が家に持ち帰り、残った。占領軍は高速鉄道に興味を示さなかった。国民も「戦艦大和と万里の長城と新幹線は無用の長物」と言っていた。だが、五輪の開催決定や島らが各地で開いた講演会で一変し、国民の期待は急速に高まっていく。

 戦闘機開発に携わった技術者100人以上を取材した作家、前間孝則(69)は「新幹線は戦前の技術者の蓄積が発露した一つの象徴。70年代までの企業はこうした技術者の活躍に依存した面も大きい」と話す。

 68年に竣工、「高く」を象徴した霞が関ビル(147メートル)もそうだった。成長する国内企業、増えるオフィスワーカー。防災上課せられていた31メートルの「高さ規制」の撤廃は必至だった。

 時代の要請に応えたのは、戦前に耐震構造学の体系を作りあげた東大教授、故武藤清。関東大震災で倒れなかった日本古来の建築物、五重の塔に学んだ。

 武藤に接触したのは三井不動産社長の故江戸秀雄だった。旧華族会館などがあった一帯の再開発が浮上し、規制撤廃を政府に働きかけた。高層建築に野心を抱く鹿島社長の鹿島守之助、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)頭取の中山素平(ともに故人)も同調した。

 霞が関ビルは高さ以外でも画期的だった。軽量サッシや高層エレベーター、スプリンクラー。どれも日本で初めて使われた。建材、電機メーカーには大きな実証実験の場になった。

 ビルは新名所となった。開業3年間は1階に観光客の長蛇の列ができた。「一望できたのは浜離宮や富士山ではなく、日本の経済発展だった」と三井不動産会長の岩沙弘道(72)は言う。以降、日本は高層建築時代を迎える。全国に建てられた100メートル超のビルは1千棟以上にも上った。

 高揚感が最後の頂上に達したのは万博もあった70年。鉄鋼大手「八幡・富士」が合併して新日本製鉄(現新日鉄住金)が誕生、「大きく」の象徴になった。

 当時、富士製鉄の原料部副長だった新日鉄住金名誉会長の今井敬(85)は振り返る。「日本の復興で『ドッジライン』ができ、企業が自立を求められたのが起点。ソ連の脅威が高まり、日本を強く、との機運も米国にあった。60年代には日本の政策に、米巨大企業と競う上で大きくなる必要あり、との考えも芽生えた」

 富士・八幡でそれぞれ社長だった永野重雄と稲山嘉寛(いずれも故人)は「我々の目の黒いうちに合併を」と話していた。2人は戦後解体される前の旧日本製鉄時代に上司と部下。メディアを巻き込んで「公開交渉」の様相を呈した。

 公正取引委員会は待ったをかける。だが合併は実現した。後押ししたのは国内外の要請だ。国内では川崎製鉄などが相次ぎ高炉に参入。粗鋼生産が急激に増えて販売競争が激化した。対米輸出も急増し、60年代半ばには米国との貿易摩擦が起きた。「鉄鋼に秩序を」。通商産業省(現経済産業省)も声を上げていた。

 当時流行したのが「大きいことはいいことだ」と歌うCM(68年、森永製菓)だ。新日鉄誕生から3年後、日本の粗鋼生産は過去2番目となる1億2千万トンを突破。「1億トンを超えたら対外的に批判を浴びる」と言われるなか、今井は「高揚感という感覚はもうなかった」と振り返る。

 早く、高く、大きく。中でも「大きく」は製品開発から企業の形まで様々な分野で進んだ。だが日本全体を見渡せば、貿易摩擦や一極集中、環境問題なども生んだ。野村総合研究所理事長の谷川史郎(58)は「73年の石油危機は日本の方向を修正させる、いわば外圧だった」と表現する。=敬称略

 編集委員 中山淳史が担当しました。

速く
JR東海相談役 須田寛氏
新幹線、紆余曲折の産物

 新幹線はチームワークの仕事だったが、まとめ役としての功労者は島秀雄さんだった。ゼロ戦の技術を新幹線に応用して貢献した松島精(ただし)さんなど、すごい人たちを束ねた。

 島さんは技師長だったが、頻繁に国鉄を出て外で活動されていた。国に敷設に向けた委員会をつくらせたり、講演に歩いたりして、事務方としても総裁の右腕だった。

 だが、島さんも十河信二総裁も1964年10月の初列車の日は国鉄にいなかった。1950億円でできるといっていた費用が2倍に膨れ、国会の批判を浴びて辞任された。とても残念だったのを記憶している。

 新幹線は紆余曲折(うよきょくせつ)の末の産物だった。国鉄内部には当初、線路の幅を変えずに在来線のまま複々線化する案があった。そこに新幹線を推す十河総裁がやってきた。議論が途中で変わった名残が名称だ。東海道新幹線は正式には「東海道本線(新幹線)」と呼ぶ。運賃は在来線と同じ。複々線化でとどめず、新幹線にして正解だった。それは言うまでもない。

高く
三井不動産会長 岩沙弘道氏
技術革新生んだ高層建築

 人はなぜ高い建物を建てるのか。歴史をひもといてもピラミッドから摩天楼まで繁栄した文明に高層建物はつきものだ。

 霞が関ビルは権力を誇示するものではなかった。復興や高度成長の象徴、あるいは経済性、効率性の追求という視点が強かった。江戸英雄さんは各国の大都市を研究して「日本が先進国の仲間入りをするなら課題解決につながるプロジェクトにしよう」と言っていた。

 例えば、ビルが計画された1960年代後半は東京の構造的課題がクローズアップされた時期だった。オフィスの供給不足、高さ規制によるインフラ整備上の制約、資金調達の難しさ。それなら思い切って超高層化して周辺地区も巻き込んで一体で開発を、と踏み切った。災害の際の避難場所、ゆとりの空間といったことも真剣に考えられた。

 結果的に多くの技術革新を生んだ。工法や設備機器だけではない。景観や空間の質の高さが価値を生み出すと初めて認識され、高層階ほど賃料が上がる価格革命が起きた。不動産開発という産業が大きく変貌した。

大きく
新日鉄住金名誉会長 今井敬氏
鉄、日米摩擦一番乗り

 高度経済成長期にさしかかる頃から、高炉建設ラッシュが起きた。日本の粗鋼生産量は1973年まで20年間で20倍に増え、1億2千万トンに達した。2000年代に中国で供給量が急拡大したのと似た状況だ。

 高炉が1本増えると粗鋼生産量は300万トン増えた。だから、すぐに供給過剰に陥り、不況になった。そういうことが何度も繰り返されたのが60〜70年代だった。

 一方で、不況が来ると輸出が増えた。最大の需要国は米国だ。まだ自動車用鋼板は少ない。建設向けなどの鋼材が多かったが、安くて品質のいい日本製は急激に輸出量が増えた。65年ごろから米国で強まったのが日本の鉄鋼製品への「アンチダンピング」の動きだ。日米摩擦は全産業で鉄が一番早かった。

 合併の話に戻れば、八幡と富士の国内シェアは当時19%と17%だった。公取委から事業の一部を他社に売却せよとの条件が示され、合併後36%となった新日鉄のシェアは数年後に34%まで低下した。競争制限になるほど「大きく」はならなかった。

 <訂正>5日付日曜に考える面の「企業転変 戦後70年」の記事中、「松島精さん」とあるのは「松平精さん」の誤りでした。

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