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連載コラム

第68回「五感を開放させる古家改装のカフェ 〜石かわ珈琲」

[ 2009年8月24日 ]

JR横須賀線の北鎌倉駅から約1キロ。円覚寺の横をすり抜け、葉祥明美術館や明月院が点在する小道を歩いていくと、道の横にそそり立つ崖の上に「石かわ珈琲」が見えてくる。2009年7月17日に開業したばかりの豆販売とカフェの店だ。古い住宅を改装し、演出をそぎ落とした店内は、五感の働きを促す空間となっている。

 自家焙煎したコーヒー豆のガラス容器を並べた棚に、4つのいすを置いたカウンター席と3つの四角いテーブル席。「石かわ珈琲」は、オーナーの石川新一さんが一人で切り盛りするのにちょうど良さそうなこじんまりした店だ。

 築40年の古い住宅を購入し、1階部分を改装して店舗にした。入り口の脇には自家焙煎をするための部屋が続き、2階は石川さんの住居になっている。

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写真左:道路から階段を上ってアプローチする建物
写真右:入り口

 自然素材をシンプルに用いた内装は、「いらした方に気持ちよく過ごしてもらいたい」という石川さんの思いを反映したものだ。

 テーブル席コーナーの2面開口からは、敷地や向かいの斜面に生える緑が目に飛び込んでくる。既存の木製サッシをそのまま残し、別の場所で使っていた網戸をはめ込んだ窓が、住宅だった当時の雰囲気を伝える。

 既存の天井ははがして、梁や2階の床材をそのままむき出しにした。カウンター席まわりは、床までの掃き出し窓を壁に直し、はめ殺しの細長い窓を入れた。樹木だけが見えるように外の景色を切り取るためだ。

 マツのフローリングに、石川さん自身が塗った珪藻土の壁。豆を並べたディスプレイ棚やキッチンカウンターの天板には、工事用の足場材を使っている。テーブルまわりの家具は、佐賀県の家具店に作ってもらった。

 以前の家屋の名残がそのまま表れている部分もある。ディスプレイ棚は既存の柱の間に棚板を渡したものだし、カウンター席の一画に立つ柱は和室の床柱だ。

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写真左:自家焙煎の豆を並べたディスプレイ棚
写真中:カフェのテーブル席
写真右:カウンター席

 ところで石川さんはなぜ、利便性が高いとは言えず、携帯電話圏外にある場所をあえて選んだのだろう。実は、初めから建物の購入を考えていたわけではなかったという。

 当初は、初期投資が少なくて済む貸し店舗での出店を予定していた。しかし、別に自分の住まいの家賃が加わることを考慮すると、家を購入して自宅と店舗を兼ねたほうが安い。買うとなるとある程度長く住むことになるだろうから、好きな街を選びたい。

 こう考え直し、以前から好印象を抱いていた鎌倉周辺を探すことにした。いろいろと見て回った末、価格が手ごろで寺や山の近い落ち着いた環境を気に入り、「古家あり」のこの土地の購入を決めた。

 建物は道路から階段を33段上らなければならず、店の条件として不利ということは分かっていた。しかし、こうした高低差も「うまく利用すれば、むしろ落ち着いてコーヒーを楽しんでいただける空間にできるはず」と石川さんは積極的にとらえた。

 確かに、客席は道路面からずっと高い位置にあるため車や人の往来が視界に入らず、目を上げると向かいの斜面の緑が見える。日常からちょっと隔たった気分に浸るには程よい雰囲気だ。

 便利な立地にこだわらなかったもう1つの理由は、豆のネット販売を中心に考えているから。ただ、豆を気に入ってもらうには一度試飲してもらう必要がある。カフェは、そのための付随スペースという位置付けになる。最終的には、豆の販売とカフェの売り上げが8対2程度の比率になる状態を目指している。

 言い換えれば、インターネット販売という手法があったから店の利便性を二の次に考えられた。その結果、適度にゆったりした広さと住宅地ならではの静寂さをもつ空間を手に入れることができた。

 取材に訪れたお盆過ぎの午前、席に座っているとセミの声が聞こえてきた。そういえば、この店にBGMは流れていない。あえて音楽は流さず、石川さんが立ち働く音や外から漏れ入る音を楽しんでほしいと考えているからだ。

 また、窓を開けた網戸からは心地良い風が流れてくる。昼間は窓を閉めてエアコンをかけているというが、季節によっては樹木を通した気持ちいい自然風をそのまま取り込める。

 BGMや空調など通常ならつくり込んでいく店の要素をできるだけそぎ落としたことで、客は、場所がもつありのままの環境に触れられる。コーヒーの香りや味だけでなく、周囲の音や空気、素材の触感などをストレートに受け入れる。五感が開放されていくこの感覚は、どこかなつかしい心地良さに結び付く。

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写真左:入り口方向見返し
写真右:オリジナル製作してもらったテーブルと食器

 新鮮さを重視して毎日少量ずつ焙煎する豆は、世界各地の厳選された農園のものだ。その年度に収穫されたニュークロップと呼ぶ生豆だけを利用している。

 まず味を知ってもらうことが大切なので、ここではお試しセットを用意している。ブレンド3種、あるいはおすすめストレート3種のパックが「送料込みで1000円」というセットだ。周辺のハイキングコースを訪れる観光客などに向けて、持ち込んだ容器にコーヒーを量り売りするポットサービスを行うことも考えている。

 「店でのやり取りやインターネットを通じ、家庭でのおいしいコーヒーのいれ方や飲み方などを発信していきたい」と石川さん。客の疑問に答え、プロのちょっとしたコツといった情報を提供する。そんなコミュニケーションがファンのすそ野を広げ、ひいては売り上げの向上にもつながっていくはずだと考えている。

 開店から1カ月あまり。小さな工夫を重ね、店の着実な歩みを目指していく。

(守山久子)


 
■石かわ珈琲
http://www.ishikawa-coffee.com/
神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷197-52
TEL 0467-81-3008
営業時間 11:00〜18:00
木曜休

商空間デザイン最前線(日経デザイン編)
執筆者:守山 久子

フリーランスライター。
1963年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。
ゼネコン設計部、日経BP社「日経アーキクチュア」「日経ストアデザイン」「日経アート」「日経デザイン」の各編集部を経て2003年に独立。住宅、建築、デザインの分野を中心に取材・執筆を行う。著書「家族と財産を守る耐震リフォーム」(週刊住宅新聞社)、共著「デザイン・エクセレント・カンパニー賞!」「デザインエクセレントな経営者たち」(ダイヤモンド社)、「巨匠の残像」(日経BP社)。

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