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連載コラム

渋沢栄一著『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(2)

[ 2010年4月6日 ]

前回よりつづく)

3 渋沢栄一の基本思想

 渋沢栄一の基本思想は、はじめの「処世と信条」で吐露される。そのキーワードはふたつ、〈論語と算盤は一致〉と〈士魂商才〉である。
 前者については、先ほど触れ、あとでも述べるが、いまはこれだけ引用しておきたい。

富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えている(p22)。

 ここでは、道理を踏まえた事業こそ、いわば、ゴーイングコンサーン(継続企業)を実現できると説かれているのである。
 後者の士魂商才とは、菅原道真の「和魂漢才」から来ている。和魂漢才とは、日本魂(やまとだましい)をベースにしつつも、論語を中心にした「漢土の文物学問をも修得して才芸を養わねばならぬ(p22)」という意味である。そうなると士魂商才のその意味も、おのずと察せられるであろう。まずは本書の説くところに、じっくり耳を傾けたい。

人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、やはり論語は最も士魂養成の根底となると思う。 それならば商才はどうかというに、商才も論語において充分養えるというのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いようであるけれども、その商才というものも、もともと道徳をもって根底としたものであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞(ぎまん)、浮華(ふか)、軽佻(けいちょう)の商才は、いわゆる小才子(こざいし)、小悧口(こりこう)であって、決して真の商才ではない。ゆえに商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である(p23)。

 思い出すのは、明治時代、旧武士階級による商いの多くが失敗し「武士の商法」と揶揄されたことである。これを避けるためにも渋沢は、武士道と商才の融合を教示する。しかも驚くことに、両者の根底にあるのが、ともに論語であるというのだ。
 本書後半の「実業と士道」において、武士道の議論をさらに重ねる。

武士道は、啻(ただ)に儒者とか武士とかいう側の人々においてのみ行なわるるものではなく、文明国における商工業者の、拠りてもって立つべき道も、ここに存在することと考える。かの泰西の商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、仮令、その間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の鞏固(きょうこ)なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである(p246)

と指摘したうえで日本の商工業者を叱る。

しかるに、わが日本に於ける商工業者は、なおいまだ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、ややもすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨(はし)らんとする傾向があって困る。欧米人も常に日本人がこの欠点あることを非難し、商取引において日本人に絶対の信用を置かぬのは、我邦の商工業者にとって非常な損失である(p246~247)。

 ここらを読むと、はてさてこれは、いつの時代の話だったかと首を傾げてしまう。近年の相次ぐ企業不祥事を思い浮かべるのも、仕方ないだろうか。で渋沢は結論づける。「今や武士道は移してもって、実業道とするがよい。日本人は飽くまで、大和魂の権化たる武士道をもって立たねばならぬ(p247)」と。

 渋沢栄一の基本思想の底には、このように、まさに、論語と武士道があるのだ。押さえたいのは、渋沢は、武士道に強さと美しさを、そして論語には倫理と正義感を見出している点である。
 以上を総論とすると、各論として、人生観、商いの道、顧客論、目的論、人材論、利益論、経営論などが導き出せるが、『論語と算盤』全体を再構成し、それぞれの観点からご案内していきたい。

4 渋沢栄一の人生観

 まずは渋沢の人生観である。
 その特長は、誠意主義ともいうべきほど、誠意を大切にすることだ。これは哲学というより実践から得られたものと考えられる。 
 いの一番に説かれるのは、忠恕一貫(ちゅうじょいっかん)の思想である(p45)。忠恕とは、広辞苑には「まごころとおもいやりとがあること。忠実で同情心が厚いこと」とある。『論語と算盤』では相愛忠恕という表現が使われたり「人情を理解し、おのれの欲せざる所はこれを人に施さず(p251)」ともいうが、もとよりこの趣旨の文章は、本書に散りばめられている。
 忠恕とはなにかについて、渋沢栄一は『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』(三笠書房 知的生き方文庫)においてこう記す。

忠とは衷心よりの誠意懇情を尽くし、事に臨んで親切を第一とすることを言う。恕とは、平たく言えば「思いやり」と同じ意味で、事に当たって先方の立場になり、先方の心理状態になって考察してやることである。ただし忠と恕とは個々別々のものではない。忠と恕とを一つにした「忠恕」というものが、孔子の一貫した精神であると同時に『論語』を貫く精神である(p117~118)。

 忠恕一貫の思想は「先方の立場になり、先方の心理状態になって考察」する以上、おのずと、真の常識を重視することにつながっていくだろう。そして真の常識が、知恵・情愛・意志の3つのバランスのうえにできることを検証する(『論語と算盤』p92~95)。「この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行ったのが、初めて完全なる常識となる(p95)」。すべては、忠恕一貫の思想、真の常識の重視のうえに成り立つのである。
 これらの考え方に沿ってであろう、努力もこう奨励される。

怠惰はどこまでも怠惰に終わるものであって、決して怠惰から好結果が生まれることは断じてない。すなわち、座っていれば立ち働くより楽なようであるが、久しきに亘ると膝が痛んで来る。それで寝転ぶと楽であろうと思うが、これも久しきに亘ると腰が痛み出す。怠惰の結果はやはり怠惰で、それが益々甚だしくなるくらいが落ちである。ゆえに、人は良き習慣を造らねばならぬ。すなわち、勤務努力の習慣を得るようにせねばならぬ(p114~115)。

 そうまでいわれると、かなり説得された気分にもなってくる。努力にからんでということか、勇猛心の養成法も教示されている。ここで渋沢は、正義を断行する勇気を養うため、肉体、とりわけ下腹部の鍛錬を呼び掛ける。

下腹部に力を籠(こ)める習慣を生ずれば、心寛く体胖(たいゆた)かなる人となりて、沈着の風を生じ、勇気ある人となるのである(p82)。

 勇気とは、心だけでなく体の課題であることも、改めて知った次第。でありながら、その一方で、孔子の「もって進むべくんば進みもって止まるべくんば止まり、もって退くべくんば退く」を引きつつ、分を守ることの大切さも説く。さらに「出処進退が大切(p46)」と指摘する一方で、進取の気性を忘れてはならぬともいう。ここでも孔子の「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず(p47)」を持ち出す。生きるうえで、バランス感覚というものが、いかに大切かを訴えるのである。
 とはいえ、丸いばかりでは困ると苦言も呈する。「人間には如何に円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすい(p76)」。角必要論である。なぜかといえば「小成に安んじてはならぬ(p178)」からだ。
 得意なときをいましめる言葉も。「得意時代だからとて気を緩(ゆる)さず、失意の時だからとて落胆せず、情操をもって道理を踏み通す(p47~48)」と。
 この辺、渋沢人生論のエキスともいってよく、熟読に熟読を重ねたい。

 人生論の佳境に、老衰論とでもいうべき一節がある。年令とともに、誰しも劣っていく存在であるゆえにこそ、ここは玩味熟読したい。

ある書物の養生法に、もし老衰して生命が存在しておっても、ただ食って、寝て、その日を送るだけの人であったならば、それは生命の存在ではなくして、肉塊の存在である。ゆえに人は老衰して、身体は充分に利かぬでも、心をもって世に立つ者であったら、すなわちそれは、生命の存在であるという言葉があった。人間は生命の存在たり得たい。肉塊の存在たり得たくないと思う(p158)。

91歳で亡くなるまで現役をつづけた、渋沢栄一ならではの言葉であろう。この延長でということか、「人は棺を蓋(おお)って後、論定まる」という古言を引いた死後の評価に関する記述も見られた(p192)。

5 商いの道

 渋沢栄一は、商いの道が論語によるべきことを唱導する。

算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の富が活動されるものである。ゆえに論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いものである(p21)。

 冒頭近くのこの一節は、渋沢思想の中核といってよい。前後の文章と合わせ、精読されることをお勧めしたい。「甚だ遠くして甚だ近い」論語と算盤が溶け合わされるべきことが、圧縮して語られている。
 商いの道においてなにより肝要なのは信頼感であろう。この信頼感の大切さを、渋沢はひとことで「ぜひ一つ守らなければならぬことは、商業道徳である。約すれば信の一字(p156)」と説明する。さらに以下のように言葉を重ねる。

信の威力を闡揚(せんよう)し、わが商業家のすべてをして、信は万事の本(もと)にして、一信よく万事に敵するの力あることを理解せしめ、もって経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である(p267)。

 「信の威力」というキーワードのインパクトは強烈といってよい。「信は万事の本(もと)」とか「一信よく万事に敵するの力ある」は、みずからに何度でも言い聞かせたくなる。また、これらを裏づけるようにこうも語る。

道理は天における日月のごとく、終始昭々乎(しょうしょうこ)として毫(ごう)も昧(くら)まさざるものであるから、道理に伴って事をなす者は必ず栄え、道理に悖(もと)って事を計る者は必ず亡ぶることと思う。一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫のごときものである(p313)。

 噛み締めたい言葉である。なかでも「道理に伴って事をなす者は必ず栄え、道理に悖(もと)って事を計る者は必ず亡ぶる」と言い切っている点、真摯に受け止めたい。そういえば、天命へのコメントも少なからず見受けられた。

人間が世の中に活き働いているのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命がすなわち天の配剤となって顕われ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあったり、餅を売ったりする者があったりするのである(p27)。

 少し飛んで「畢竟(ひっきょう)みな天命である(中略)。人間は天命に従って行動せねばならぬ(同)」ともいう。天命というと、21世紀を生きる私たちにはイメージがつかみにくいかもしれないが、ここは天職と言い換えてはいかがだろうか。これなら、この文章もさらにしっくり来ると思われる。天職といえば、渋沢は「余は明治六年、思う所ありて官を辞して以来、商工業というものが自己の天職である(p205)」とも述べている。

(次号につづく)

新・お店のバイブル
執筆者:青田 恵一

福島県出身。中央大学法学部法律学科卒業。中小企業診断士。
長年、小売店(八重洲ブックセンター、ブックストア談などの書店)に勤め、店長、営業企画課長、事業推進部長などを歴任。数々の出店と店舗指導に関わる。
現在、コンサルタンティング会社「株式会社 青田コーポレーション」代表取締役。
経営コンサルティング、店舗診断・提案、研修、出版、執筆などに従事。書店中心に商品レイアウト変更や販売促進を得意テーマとする。
2001年 日本エディタースクール「編集コース」終了。
2003年 『よみがえれ 書店——V字回復へのヒント』(青田コーポレーション出版部発行、八潮出版社発売)を刊行。
2004年 『書店ルネッサンス——進化・視察・出版営業・未来・電子ペーパー』(同)を刊行。書店進化論や、電子ペーパー報告などを収録。
2005年9月には「たたかう書店—メガブックセンター・責任販売・万引き戦争・ジャンル別マネジメント・新古書店対策—」(同)を刊行、「よみがえれ 書店」シリーズ完結編として注目を集めている。同書は日本図書館協会選定図書にも選ばれた。

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