日経メッセ > リテールテックJAPAN > 連載コラム > 新・お店のバイブル > 渋沢栄一著『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(3)

連載コラム

渋沢栄一著『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(3)

[ 2010年5月7日 ]

前回よりつづく)

6 目的論

 事業の目的とは、なんであろうか。企業の利益か、自己の利得か、はたまた社会への貢献か。渋沢栄一は答える。その真の目的は「実業と士道」にある、と。渋沢はここで「商業の真個の目的が有無相通じ、自他相利するにある(p251)」と明快に言及している。現代の状況を考えるとき、「自他相利」というキーワードが心に沁みるのはなぜだろう。「自他」の「他」には、他企業や顧客はもちろん、社会や世界も入ってくるだろう。「他」とは、自分以外のすべてを指すものと思われる。ここでは、「自他相利」という表現で、目的が偏らないようにと説いているのかもしれない。
 ところで、目的を考える際欠かせないのは、大局に立つことであろう。山頂に立ってはじめて目指すところが見出せるように、設けるべき目的は、マクロ視点から明確につかめるのだ。たとえば、グランドデザインを構築せんとするとき、この観点は要となる。

 前述の偕成社、今村正樹氏に、渋沢栄一からなにを学ぶかと問うたとき、氏はすかさず「グランドデザインを作ったこと」と応えた。渋沢は、明治のビジネス社会を構想し、その実現に力を尽くした。近代国家の構想があってはじめて近代経済も成り立つのであった。経営力のなかでも、このグランドデザインの構想力こそ、現代に必要にして足りないものにちがいない。
 渋沢は「地図を見る時と実地を歩行する時」を例に取り、大局に立つ重要性をこう語る。

論語にはおのれを修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできまいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることができると考えたのである(p31~32)。

 ともすれば目的は、内部のことだけに限定されやすい。ややもすると、顧客とか社会は薄くなる傾向なのだ。だから、経営者にありがちな社会への無関心をいさめる一節にも力がこもる。

今時の富豪はとかく引っ込み思案ばかりして、社会のことには誠に冷淡で困るが、富豪といえど自分独りで儲かった訳ではない。言わば、社会から儲けさせて貰ったようなものである。例えば地所をたくさん所有していると、空地が多くて困るとか言っているが、その地所を借りて地代を納めるものは社会の人である。社会の人が働いて金儲けをし、事業が盛んになれば空地も塞がり、地代も段々高くなるから、地主もしたがって儲かる訳だ。だから自分のかく分限者になれたのも、一つは社会の恩だということを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいうものに対し、常に率先して尽くすようにすれば、社会は倍々健全になる(中略)。 だから富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ(p147)。

 ここでは、経営を、社会に世界に開く、ということがわかりやすく説明されている。この話は、業種業態を問わず成立しよう。お店や企業は、自社の商品を購入する人間に支えられ、その人々は社会のなかに生きている。ならば、人や社会を無視して、経営は成り立たない。「自分さえよければあとは・・・・・・」というような風潮を、渋沢は、木っ端微塵に粉砕しているのだ。
 ついで、多数の富に目を向けようと呼び掛ける。

多く社会を益することでなくては、正径な事業とは言われない。仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならば、どんなものであろうか。如何にその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに、国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである(p240)。

 なんと今日的な論議であろうか。未来を見据えた考察のようにも感じ取れる。これは机上の学説ではない。「日本資本主義の父」と呼ばれた人物の、実践を踏まえた〝血の叫び〟なのである。
 今日的といえば、商品についての厳しい指摘もあった。

商品の試験及び紹介をする際には、私利私情を離れて一つに邦家のためを念(おも)い、公平と親切とを忘れざらんことを切望しておく。さらにまた、日本品使用の機運が動いたのを奇貨として、詰まらぬ物を粗製濫造し、忠良なる国民を欺瞞し、一時の私腹を肥やさんと試むる商売人もあろう。かくのごときもまた、国産の発達を阻害すること尠少(せんしょう)でないから、相警(あいいまし)めてかかる不逞漢(ふていかん)の輩出を防がねばならぬのである(p258)。

 この一節は、いつなんどき、不祥事を起こしたり、巻き込まれたりするかもしれない現代企業が、とりわけ参照すべき箇所となろう。このような思想を、はるか明治の時代に持った日本なのにもかかわらず、ここに指摘されたような事件がつづくのは、人間の、企業の、国の、民族の、いかなる〝性〟であろうか。

7 人材論

 渋沢栄一は、明治維新という革命の時代、近代実業への道を志した人物だけに、人材への渇望はひとかたでない。ここではその人材論をみる。まずは、最も大事な人を見る目である。人を見極めることほど、難しいことはない。この点を渋沢は、どう語っているのだろうか。本書『論語と算盤』は、論語を踏まえつつ、肉眼だけでなく、心眼でもみることを指南する。

孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕われた行為の善悪正邪を相し、それよりその人の行為は何を動機にしているものなるやを篤と観、さらに一歩を進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしてるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になる(中略)。如何に外部に顕われる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人であるとは言えぬ。時には、悪をあえてすること無しとせずである(p30~31)。

 要するに、「行為と動機と、満足する点」の3つが揃うことを示すのである。前回引用した、渋沢栄一著『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』(三笠書房 知的生き方文庫)では、この見方を「〝視・観・察〟三段階観察法」と命名している。

 人材の活用ポイントは適材適所にあるが、これについて『論語と算盤』では、「権謀家」徳川家康の配置の例をあげている。

居城江戸の警備として、関東は大方譜代恩顧の郎党をもって取り固め、箱根の関所を控えて大久保相模守を小田原に備え、いわゆる三家は、水戸家をもって東国の門戸を抑え、尾州家をもって東海の要衝を扼し、紀州家をもって畿内の背後をいましめ、井伊掃部頭を彦根に置いて、平安王城を圧したなんど、人物の配備は実にその妙を極めたのである。その他越後の榊原、会津の保科、出羽の酒井、伊賀の藤堂にしても、且つは中国九州はもちろん、日本国中到らぬ隈なく、要所には必ず自家恩顧の郎党を配備し、これはと思う大名は、手も足も出ぬように取り詰め、見事に徳川三百年の社稷(しゃしょく)を築き上げたのである(p37~38)。

 うーん、そうだったのかと改めて驚嘆する。この一文には、大局に立つ目的があって、人材像が明確になる、という示唆があるものと考えられる。江戸の世を、少しでも長くつづけられるようにと、御三家をはじめとする「人材」を配置したのだ。
 そして耳に痛い言葉も。「適材を適所に使うということは、なかなか容易のものではなく、現在にても重役としての技倆(ぎりょう)に欠けた人で、その職にあるものが少なくない(p238)」と。考えさせられる一節だ。

 人材の生かし方に「志と所作」のテーマがある。

人の行為の善悪は、その志と所作と相俟って較量せねばなるまい。志が如何に真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪侈では何にもならぬ。志においては、飽くまで人の為になれかしと思って居ても、その所作が人の害となるようでは善行といわれぬ(p105~106)。

 ここでは、意識の高さと仕事の処理能力が問題とされる。渋沢の答はこうだ。

心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい(p107)。

 渋沢人間観の面目躍如といってよいだろうか。つまり、仕事の基本ができていない人は戦力になりにくい。仕事が迅速にでき、かつ意欲もある人が、評価されるべきことが説かれている。

 働く側にとり、上司が厳しいか優しいかは、命を削るほどの重要テーマである。ここでも渋沢は的確なヒントを提供する。「何事も後進に対して優しく親切に当たる人」と「いつでも後進に対するに敵国の態度をもって」する人と、リーダーとして、どちらが有用か。となると答はすぐ前者と出そうだが、渋沢は意外にも後者に軍配をあげている。

如何に欠点があっても、また失策しても、飽くまで庇護してくれる先輩の懇篤なる親切心は、誠にありがたいものであるに相違ないが、かかる先輩しかないということになれば、後進の奮発心を甚だしく沮喪(そそう)さるものである(p41)

これに反し、後進をガミガミ責めつけて、常に後進の揚げ足を取ってやろうやろうという気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬようにと心掛け、あの人に揚げ足を取られる様なことがあってはならぬから、と自然身持ちにも注意して不身持ちなことをせず、怠るようなことも慎み一体に後進の身が締まるようになるものである(p41~42)。

 この辺は議論があるかもしれないが、個人的には、渋沢のいうところ、多少わかるつもりである。激しい競争に打ち勝つ面もあったろうから、現代でも、同じことは成り立つといえまいか。
 一方で渋沢は、この時代に、女性の力の活用も訴えている。「女子も社会の一員、国家の一分子である。果たして、しからば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様、国民としての才能智徳を与え、倶(とも)にともに相助けて事をなさしめたならば、従来五千万の国民中、二千五百万人しか用をなさなかった者が、さらに二千五百万人を活用せしめることとなるではないか(p282)」と。談話では「これからは女性の力だ」と明言してもいたらしい。

 また高年者も重要という。「青年も大事であるけれども、老年もまた大切であると思う。青年とばかり言って、老人はどうでも宜いと言うは、考え違いではないか(p61~62)」と。
 さる企業のさるトップクラスが「これからは『じょろうがい』だ」といったそうだ。じょろうがい? いったいなんだろうと思ったが、じつはこれは『女老外』のことらしい。すなわち、今後の人材として、女性、高年者、外国人を考えているとのこと。渋沢の先見性を想う。
 かといって、未来を担う青年への期待も小さくない。

今後地図の変化に伴う商工業勢力範囲の変化について、適切なる準備と実行の責任とは、未来の当事者にあるのである。しかして、この未来の当事者なるものは、現時の青年を除いて外にない。青年たる者は今日よりして審思熟慮、これに対する策を講ずべきである(p248~249)。

 この「未来の当事者」への期待は「適切なる準備と実行の責任」に対し最も高まり、「審思熟慮」とその対策を、強く求めている。

8 利益論

 江戸時代、士農工商と最下位だった実業者、ということを考えると、利益をどうとらえるかは、伊藤仁斎が言論闘争を繰り広げたように、経営上の大テーマになる。渋沢栄一のいくつかの見解を聞いてみたい。

真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない(p124)。 おのれをのみという考えが、おのれ自身の利をも進めることが出来ぬ(p126)。 孔子の言わんと欲する所は、道理を有(もつ)た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて指し支えないとの意である(p131)。 経済と道徳とを調和せねばならぬ(p137)。 真に理財に長ずる人は、よく集むると同時によく散ずるようでなくてはならぬ。よく散ずるという意味は、正当に支出するのであって、すなわちこれを善用することである(中略)。われわれは金を貴んで善用することを忘れてはならない(p150)。

 経済と道徳とは調和すべし、真正の利殖は仁義道徳に基づくべし、金を貴んで善用すべし、というように、道理にもとづく利益なら、再活用を前提に評価する姿勢が鮮明なのである。ここも現代企業のあり方を問う教示となった。

(次号につづく)

新・お店のバイブル
執筆者:青田 恵一

福島県出身。中央大学法学部法律学科卒業。中小企業診断士。
長年、小売店(八重洲ブックセンター、ブックストア談などの書店)に勤め、店長、営業企画課長、事業推進部長などを歴任。数々の出店と店舗指導に関わる。
現在、コンサルタンティング会社「株式会社 青田コーポレーション」代表取締役。
経営コンサルティング、店舗診断・提案、研修、出版、執筆などに従事。書店中心に商品レイアウト変更や販売促進を得意テーマとする。
2001年 日本エディタースクール「編集コース」終了。
2003年 『よみがえれ 書店——V字回復へのヒント』(青田コーポレーション出版部発行、八潮出版社発売)を刊行。
2004年 『書店ルネッサンス——進化・視察・出版営業・未来・電子ペーパー』(同)を刊行。書店進化論や、電子ペーパー報告などを収録。
2005年9月には「たたかう書店—メガブックセンター・責任販売・万引き戦争・ジャンル別マネジメント・新古書店対策—」(同)を刊行、「よみがえれ 書店」シリーズ完結編として注目を集めている。同書は日本図書館協会選定図書にも選ばれた。

バックナンバー

PAGE TOP