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連載コラム

渋沢栄一著『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(4)

[ 2010年6月3日 ]

前回よりつづく)

9 経営論

 経営についての言及は、本書の各所でなされている。
 まず「実際と学理」には、「理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬ(p201)」とあり、その「調和」が肝要という。ここでは「国家」のところを「企業」とか「店舗」と読んでも差し支えないだろう。
 小売店でみると、店頭現場、本部サイドともに、進め方の方針がいったん確立されると、それが、現実優先にせよ、数字絶対にせよ、なんにせよ、至上なるものとして硬直化しやすくなる。だがそれでは、調和がうまく図れないのではないか。経営をしながらも、「実際と学理」の両方から、学ぶ姿勢が求められるのだ。
  
 ところで経営においては、小事と大事の問題が重要テーマとなる。本書はここにも触れていく。とかく経営の局面では、大事にはエネルギーを注いでも、小事は軽くみたり、無視しがちだ。だがという。

小事かえって大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小にかかわらず、その性質をよく考慮して、しかる後に、相当の処置に出るように心掛くるのがよい(p48)。

およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一小部分で、これが満足にできなければ、遂に結末がつかぬことになる。時計の小さい針や、小さい輪が怠けて働かなかったら、大きな針が止まらなければならぬように、何百万円の銀行でも、厘銭(りんせん)の計算が違うと、その日の帳尻がつかぬものだ(p71)。 

小事を粗末にするような粗大な人では、所詮(しょせん)大事を成功させることはできない。水戸の光圀公が壁書の中に「小なることは分別せよ、大なることは驚くべからず」と認めておかれたが、独り商業といわず軍略といわず、何事にもこの考えでなくてはならぬ(p72)。

 繰り返し説かれる各フレーズには、小といって軽んぜず、大といえども恐れず、という精神が横溢している。とはいえ、大事には大事の処し方がある。それはいかにあるべきか。渋沢栄一はこう語り説く。

事柄に対し如何にせば道理に契(かな)うかをまず考え、しかしてその道理に契ったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己の為にもなるかと考える。そう考えてみた時、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にも契い、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のある所に従うつもりである(p49)。

 ここには、自己犠牲とは異なる、いわば、社会性を意識した経営という思想が存在する。現代でいうフィランソロピー(企業による社会貢献)、またはCSR(企業の社会的責任)であろうか。自己利益より道理を優先させるという見解に対し、あるいは異論が出るかもしれないが、いまは、渋沢の経営に対する覚悟というものに、想いを致しておきたい。
 イノベーション論もある。思えば明治維新は、時代のイノベーションであった。渋沢は、維新ということをイノベーションと同じ意味で使っていると考えられる。では維新とはなにか? というと、それは一言でこう説明される。

維新ということは、湯(とう)の盤の銘にいう「苟(まこと)に日に新たなり、日に日に新たにして、また日に新たなり」という意味である(p65~66)。

 維新とは常に新たなり、ということだろうか。そうだとしても、これは、容易に体現できることではない。そのゆえにこの一句は、実践論として机上に置くなり、壁に貼るなどして、日々刻々、自分に言い聞かせたいところである。
 169ページでも論をつけ加える。

社会は日に月に進歩するには相違ないが、世間のことは久しくすると、その間に幣を生じ、長は短となり、利は害となるを免れぬ。特に因襲が久しければ、溌溂の気がなくなる(中略)。日々に新たにして、また日に新たなりは面白い。すべて形式に流れると精神が乏しくなる、何でも日に新たの、心掛けが肝要である。

 「長は短となり、利は害となる」のフレーズに、思わず目が吸い寄せられた。目先の損得だけではなく、本質を見抜く眼を養わねばならぬ、と叱咤されたような気がする。
 つぎに渋沢は、明治維新に材を取り、話を官僚的な体質のほうに転ずる。この点こそ、本書でも最大価値のある教示のひとつだ。

政治界における今日の遅滞は、繁縟(はんじょく)に流れるからのことである。官吏が形式的に、事柄の真相に立ち入らずして、例えば、自分にあてがわれた仕事を機械的に処分するをもって満足している。イヤ官吏ばかりでない。民間の会社や銀行にも、この風が吹き荒んで来つつあるように思う。一体形式的に流れるのは、新興国の元気鬱勃(うつぼつ)たる所には少ないもので、長い間、風習がつづいた古国に多いものである。幕府の倒れたのは、その理由からであった。「六国を滅す者六国なり、秦にあらざるなり」といっている。幕府を滅ぼしたるは幕府の外なかった。大風が吹いても強い木は倒れぬ(p169)。

 このように渋沢は、組織に巣食う悪しき官僚体質を、激烈に攻撃するのである。このことは、およそ組織なるものの、ほとんどすべてに共通する。振り返ってみると、原点として厳存したはずの創業精神が、いつしか官僚文化にその席をゆずっていないだろうか。「幕府を滅ぼしたるは幕府の外なかった」という寸鉄を胸にきざみ、そのうえでこれが、自店自社に当てはまらないか、自問したいものだ。
  
 関連していうなら、現代の店や企業が頭を悩ましているひとつに、企業風土とか組織文化といわれる問題がある。これについても、渋沢の示唆が深い。この難題には「習慣」という観点から斬り込む。ここもちょっと長い引用になるが、大切な箇所なのでお許しいただきたい。

由来習慣とは、人の平生における所作が重なりて、一つの固有性となるものであるから、それが自ずから心にも働きにも影響を及ぼし、悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は、善人となると言ったように、遂にはその人の人格にも関係して来るものである。ゆえに何人(なにびと)も平素心して良習慣を養うことは、人として世に処する上に大切なことであろう。 また習慣は、ただ一人の身体にのみ付随しているものでなく、他人に感染するもので、ややもすれば人は他人の習慣を模倣したがる。この他に広まらんとする力は、単に善事の習慣ばかりでなく、悪事の習慣も同様であるから、大いに警戒を要する次第である(p101)。

 習慣には固有性があり、人格と性格に影響するだけでなく、伝染病のごとく「他人に感染する」ものだ。とりわけ悪い習慣ほど感染力が強い。これを避けるには「良習慣を養う」のが一番だが、口でいうほど簡単ではない。そこで渋沢は、若い頃からの実践を促す。

ことに習慣は、少年時代が大切であろうと思う。記憶の方からいっても、少年時代の若い頭脳に記憶したことは、老後に至っても多く頭脳の中に明確に存して居る。余のごときも、如何なる時のことをよく記憶しているかといえば、やはり少年時代のことで、経書(けいしょ)でも歴史でも、少年の時に読んだことを最もよく覚えている(中略)。この時期を外さず良習慣をつけ、それをして個性とするようにしたい(p102)。

 これは新入社員教育などにおいて、とくに有益な指南となろう。でおまけに「悪いと知りつつ改められぬのは、つまり克己心の足らぬ(p103)」のだと叱責している。

 豊臣秀吉を例とする機略と経略の話も、興味深いエピソードである。「豊太閤にもし最も大きな短所があったとすれば、それは家道の斉(ととの)わなかったことと、機略があっても、経略が無かったこととである。もしそれ豊太閤の長所はといえば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気概である(p68)」と書かれているが、この辺もしっかり読み込みたい。

 これまで述べたような経営論は、「由来競争は何物にも伴う(p267)」と競争を前提にしている。独占を排しつつ、切磋琢磨(せっさたくま)を重視するのである。だがこの競争に勝つには、〝強み〟を獲得し発揮しなくてはならない。その方法について記す部分もある。

まず自己の頭脳を冷静にし、しかる後、自分の長所とするところ、短所とするところを精細に比較考察し、その最も長ずる所に向って志を定めるがよい。またそれと同時に、自分の境遇がその志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要(p73)。

 これは個人を指導するなかでの文章ではあるが、そのままお店や企業にも該当するだろう。「最も長ずる所に向かつて志を定める」ことで、〝強み〟、いまでいうコア・コンピタンスを作ること、また経営資源からみた実現可能性を前提にすることが、ここでは説かれている。

10 ビジネス書として学ぶ

 本書『論語と算盤』は、見方によっては、永遠のビジネス書といってよい。しかも、いまという時代から位置づけると、人間らしさの復活をめざした本でもある。たとえばつぎの一節だ。

一些事の微に至るまでも、これを閑却するは宜しくない。自己の意志に反することなら、事の細大を問うまでもなく、断然これを跳ね付けてしまわねばいかない。最初は些細なことと侮ってやったことが、遂にはそれが原因となって総崩れとなるような結果を生み出すものであるから、何事に対してもよく考えて行(や)らねばならぬ(p207)。

 みずからの意志や価値観に反することは、断然はねつけよと、声を大にして叫んでいるのだ。むろん、どこにおいても内部事情により、そう簡単にいかないケースもあろう。少なくともここでは、渋沢の気概を、しっかり受け止めておきたいと思う。
 渋沢は類まれなる実践家ゆえに、高邁な理論だけではなく、能率に関する記述も見られる。「ここにも能率増進法あり」でこう訴える。

われわれが始終――ことに私などは、それについて恥じ入って、諸君にも始終迷惑をかけるが、この物の切り盛りのつかぬために、無駄な時間を費やす。これがどうも事物の進むほど、注意せねばならぬことと思う。したがって、これが極端に行くと、能率が大変に悪くなる。能率の悪いということは、職工か何かにある語ですが、職工ばかりではない。通常の事務を処する人でも、チャンと時の決まりが充分付いて、この時間にこれだけの事をするということを、遅滞なく完全に遂げて行くことができると、いわば人を多分に使わぬでも、仕事はたくさんにできて来る。すなわち能率が宜くなる。事務においても、なおしかりと思う(p258~259)。

 「遅滞なく完全に遂げて行く」という表現から、仕事の要というものが、スピードと正確さにあることが示唆される。
 そのあとに「すでにテーラー(原文ママ)という人が、こういう手数を省くことについて大いに説をなして(p259)」とあり、なんとあの時代に、テイラーにも言及されていた。テイラーとは、いうまでもなく「科学的管理法の父」とも「マネジメントの父」とも称される、あの『新訳 科学的管理法』(ダイヤモンド社 2009年)で著名なフレデリック・ウインズロー・テイラーのことである。そしてここから時間の節約にも話しがいく。

われわれが時間を空費してるのは、丁度物を製作する場合に手を空しくしてると同じことであるから、これはお互いに注意して人間を無駄に使わぬはもちろんのこと、われ自身をどうぞ無駄に使わぬように心掛けたい(p262)。

 能率重視の考え方とは、他人を管理するだけでなく「われ自身をどうぞ無駄に使わぬように」というように、自己への省察があることを示し、私たちの迷妄を開いてくれている。
 数々の名句名言も現代を撃つ。

我も驕らず、彼も侮らず(p39) 千里の道も跬歩(きほ)よりす(p72) 前車の覆轍(ふくてつ)をもって後車の戒めとする(p86) 大堤も蟻の穴より崩るる(p206)

 だが貴重なのは、その社会的視点である。現在、食品などの偽装事件が続発し、誠意、礼儀の大切なことを含め、社会のルールが軽視されていることは、社会の生命的基盤が崩壊しつつあることを示す。だがこういうことは昔からあったのかもしれない。渋沢はいう。「実業界に不正の行為が跡を絶たぬようでは、国家の安全を期することができない(p141)」と。
 
 現代の経営者とビジネスマンにとり、もし〝一書〟というものがあるとするならば、まさに、この本『論語と算盤』となろう。渋沢栄一の精神が、心身の隅々に染み渡るまで、何回となく、読みこなし読み込みたいものである。

新・お店のバイブル
執筆者:青田 恵一

福島県出身。中央大学法学部法律学科卒業。中小企業診断士。
長年、小売店(八重洲ブックセンター、ブックストア談などの書店)に勤め、店長、営業企画課長、事業推進部長などを歴任。数々の出店と店舗指導に関わる。
現在、コンサルタンティング会社「株式会社 青田コーポレーション」代表取締役。
経営コンサルティング、店舗診断・提案、研修、出版、執筆などに従事。書店中心に商品レイアウト変更や販売促進を得意テーマとする。
2001年 日本エディタースクール「編集コース」終了。
2003年 『よみがえれ 書店——V字回復へのヒント』(青田コーポレーション出版部発行、八潮出版社発売)を刊行。
2004年 『書店ルネッサンス——進化・視察・出版営業・未来・電子ペーパー』(同)を刊行。書店進化論や、電子ペーパー報告などを収録。
2005年9月には「たたかう書店—メガブックセンター・責任販売・万引き戦争・ジャンル別マネジメント・新古書店対策—」(同)を刊行、「よみがえれ 書店」シリーズ完結編として注目を集めている。同書は日本図書館協会選定図書にも選ばれた。

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